興味があるからやってみる
ここ5年ほど、私はこれを大方針として生きている。
なんでもやってみたらいいじゃないの、チャンスを貰えるならさぁ。
そんな感じ。
仕事でマネジメントやらない?とか、
小学校のPTA係やってくれる人いない?とか。
そういう話が来た時、時間のやりくりができそうなら取り敢えず引き受けている。
どんなにやりたくたって機会がなければそれまでなのだし。
以前の私、特に上の子を産んで復職してからの数年は、時短だから責任は負えないと現状維持に固執していた。
とはいえ年齢もキャリアも上がってしまうので、いつまでも下っ端ではいられない。
時短でもやれる方法を探せと当時の上司に言われて初めて挑戦する気が起きた。
(この上司は今も事実上直属の上司で、下の子妊娠出産育休復職とトータルで非常にお世話になっている。
心が複雑骨折するほどのことを言われたこともあるけれど、それが自分自身の発達障害特性に気付くきっかけにもなった。
ひとことで言うとめちゃくちゃ感謝している。)
そんなわけで。
仕事上ではマネジメント役をヒィヒィ言いながら歩み、
PTA係活動のアナログさに相方と呆然とし、
保育園の運営委員会役も来そうでチベットスナギツネみたいな顔をしている。
ヨーグルトで全てを解決する1歳半
今週のお題「冬の体調管理」
うちの子供は小1娘と1歳半息子のふたりだ。
2人とも1歳になる前から保育園に通っている。
入園当初は当然病気のオンパレードで、特に娘の初年度は予兆なしの発熱で何度も呼び出された。
(こちらの親レベルが低くて察知できなかったせいもある)
11月下旬から12月にかけて病児保育に預けた日の方が保育園へ行った日より多かったんじゃないかというくらい。
保育園で免疫力を鍛え上げ手洗いうがいを覚え、今の彼女は名もなき風邪ならなんてことなく終了する。
強くなったものだ。
そして息子。
この子はお腹が弱い。
夏の間は発熱と下痢のコンボで保育園へ行けない日がしょっちゅうあった。
そんな時、どこで読んだか忘れたけれど、ベビーダノンは高いから普通のダノンを離乳食がわりに食べさせるという記事を読んだ。
(掲示板かもしれない)
藁にもすがる思いでスーパーへ行く私。
そこにあったダノンは緑のパッケージ。
しかしベビーダノンよりは安い。
(内容量の観点で)
これのことですね分かります!とばかりに購入し、息子に食べさせた。
めちゃくちゃ食べた。
さすがダノンシリーズ。
好みの味なのね。
一月食べ続けたら、発熱も下痢もなし。
その後3ヶ月何もなし。
胃腸炎でその記録は破られたけれど、わずか2日で全快した。
うつされた私は1週間かかったのに。
ダノンすげー!でも高い!どっかで安くまとめ買いできないかな!?とスーパーをはしごしていたある日、気付いてしまった。
青いダノンがあるじゃないですか。
(お値段は緑の半額)
ビオが付く緑はちょっとばかし高級ラインじゃないですか!!
そこで緑ダノン費用と職場に看護休暇や様子見遅刻連絡して謝り倒す心理的負担が天秤にかけられた。
どう考えても職場における完全不在日を減らす方向へ労力をかけた方がメリットがある。
息子の好みに合うものを与えることで健康を保ち楽しく遊んで暮らしてもらえる。
そんな素晴らしい事ってないよね!!
というわけで、今日も私は働いている。
同僚の家族にインフルエンザ患者が出だして、どこの家庭も戦々恐々である。
緑のダノンで全てを解決する1歳半はどこまで粘れるのか。
そしてインフルエンザによる学級閉鎖危機に晒されながらも免疫力とうがい手洗いで回避し続ける小1娘は、今シーズンもかからずに済むのか。
(彼女がインフルエンザにかかったのは1度だけだが、学芸会にバッティングした悲しい思い出)
ちなみに私の有給休暇残日数は1桁である。
年度末まで残るだろうか…。
いつか疲弊して倒れてしまうもの
それは孤軍奮闘なんじゃないかと思う。
良かれと思って無言実行とか、
お母さんなんだからと仕事に育児に家事にキリキリ舞いしたりとか、
管理職だから部下のフォローに身を削ったりとか。
◯◯(立場、役割)だから頑張らなきゃ、の方向性が1人で背負うことになると、
思ったほど頑張れないし、
成果と自己評価と他者評価のバランスが崩れる。
・こんなに頑張っているのに、なぜ評価されないのか
・これ以上何を頑張れって言うんだろう
自分は悪くない、評価してくれない周りが悪い。
そんな考えに陥りがちだ。
頑張っていると自負しているだけに、その方法に問題はないか?と振り返るのは難しい。
そして疲れて倒れてしまう。
そんなに無理してたなんて気付かなかったよごめんね!と謝られる人がどれほどいるんだろう。
疲れているなら言ってよ手伝うし、ならマシな方。
(倒れた人のタスクを引き受けるとは言っていない)
自己管理がなっていない、と残念なことに責められてしまうこともある。
頑張ってきた人ほど責められる理不尽。
こんなに頑張って偉いね、ありがとう
そう言われたい欲をかなぐり捨てて、
周りと協力しながら生きた方が結果的に成果も評価も出やすいと思う。
あなたもこの家の大人でしょ?
もう◯才だし、これは自分でやろうか。
体調が良くないから今夜は家事をせずに早寝するね
家族も仕事もチーム戦。
心穏やかに、持続可能な生活を送りたい。
地域密着専業主婦体験
今週のお題「2018年上半期」
ひとことで言えばタイトル通りである。
3月末までは午前中に乳児を連れて近所を散歩。
道中で通りすがりの方々が乳児を見て話しかけてくださるので大人との会話を楽しみ帰宅。
夕方になればまた乳児を連れて保育園へ行き、幼児のお友達やそのお母さん方に先生方とお話ししてぶらぶらしながら帰宅。
私と子供たちは自由が利いたので、思い出づくりに平日出掛けたり1週間実家へ帰ったり。
この数年、私の仕事や妊娠出産であまり遊べなかった幼児がとても嬉しそうだった。
それは私の両親も同じだったようだ。
今まで構えなかった初孫(上の子)や里帰りで生まれた末孫(下の子)と一緒に居る機会が多く取れてニッコニコである。
逆に夫側の実家には夫本人が多忙で行けずじまいとなり、夫の父は未だに下の子と会ったことがない。
夫の母もお食い初めに来てくれたのみである。
2人とも私の両親より10歳歳上で気力が湧かないらしく、こちらへ来るのは難しいそうだ。
次に行けたら、今度は上の子と共にエプロン持参で家政婦しに行こう。
家事はそんなに得意じゃないけれど、たまには頑張ったっていいじゃない。
まぁ、夫の母が任せてくれたらなのだけど。
4月から6月まで。
小学校に上がった上の子の登下校を下の子の慣らし保育通園がてら見守り、家で彼女の帰りを待った。
宿題に付き合って明日の準備を一緒にして。
つい、専業主婦として暮らす夢を見てしまった。
民間学童代や保育料、下の子のお弁当に心が折れた。
教育費廃課金wと自虐したら将来への投資だ!と兄から言われて立ち直った。
それなら頑張れるだけ頑張ろうかな、と。
乳児の病気祭りで頭下げまくり、自分の体調管理、家事おざなりとか色々あるけど。
下半期が始まって、また人生が変わった気がする。
喉元過ぎればかも知れなくても、少しばかり前向きに生きている。
上半期にタイトル通りの生活をしたお陰か、産休前より明るくなった…かも?
名前を隠す
防犯上の理由から、外では子供たちの名前をなるべく呼ばないようにしている。
娘のことは『お嬢ちゃん』、息子のことは『僕』と呼びかけることが多い。
持ち物への記名は必須だけれど、周りから見えないところへ記入している。
それに、NPOへ子供用品を寄付する時は名前を必ず塗り潰す。
今時はネットで検索すれば世界のどこからでも接触可能なのだ。
怖い怖い。
刀剣乱舞をやるようになってから、というか、二次創作を読むようになってからか。
名前を知られることの怖さを考えるようになった。
神様に真名を握られたら…っていうの、どこまで本当か分からないけれどとても怖いと思う。
現実には悪意の人間に知られた場合が一番恐ろしい。
この世にいる限り、幽霊よりも生きている人の方が怖いのだから。
だらだらと振り返ってみる
今週のお題「おとうさん」
地震雷火事親父。
まさにそんな感じの昭和の父で、周りの子がママの方が怖いと言うのが信じられなかった幼少時代である。
口より先に手が飛んでくるので、食事時に隣に座るのはもはや罰ゲームだった。
酔って帰れば絡まれ理不尽に怒られるので寝たふりをしたのも数知れず。
成績が落ちればひと月無視。
いやー、よく非行に走らず大人になれたもんだよ私たち兄弟…。
みんな独立したし。
父は中学で父親と死別し、兄が地元から出奔し姉たちは嫁ぎ先。
母子家庭の貧乏生活で大学に行けなかったことを随分と後まで言っていた。
本当の問題はそこじゃない気がしているけど口にしたことはない。
母親が頼みにしていた長男様が逃げ出した後、手をかけて貰えてこなかった次男がどうしたくなるかなんて、ねぇ…。
父方祖母の引き取り同居で空中分解した私の家族は、そのまま元には戻らなかった。
某ちゃんねるで言う、はっちゃけ次男&エネme妻。
母が自分の根城にしていたダイニングキッチンに中高生の子供が3人ひしめき合って、居間で祖母がポツンとテレビを観ていた。
ぱっと見父方祖母がかわいそうだが、私は全くそうは思わなかった。
母を台所住まいにさせおって、私たちから勉強部屋を奪いおって、と毎日イライラしていた。
この状況で私に進学校で好成績を取り国立大へ行けとか何なの。
センター試験前でも1人部屋を与えられず、父方祖母から移された風邪が拗れて私がどう思ったか。
こんな無茶な生活何年もして、母が離婚を言い出すんじゃないかと固唾をのんで見守った学生時代。
離婚しなかったのは、途中でエネmeな母が覚醒して下克上したからだ。
父も自分の家庭が壊れたのは父方祖母のせい、連れてきた自分のせいだと気付いたとのことで、大人しく母に従った。
いまは2人で旅行に行き、孫たちを訪ねて出歩くようになった。
それでいいと思う。
仲良くなれて良かったね。
要所要所で父の希望と言う名の暴走を(メンタル的な生死をかけて)へし折ってきた私が夫を連れてきた時、父は歓喜した。
そこには父の理想像があったからだ。
末っ子次男で国立理系院卒。
そのための夫じゃ全くないけれど、結果的になんか満たされたような顔をしていたのでそっとしておいた。
娘が生まれた時、父は初孫に当然フィーバーした。
だが、いわゆるガルガル期だった私は変に甘やかすんじゃねぇと常にブチ切れていた。
自分にとっては需要と供給がアンマッチで反抗することもできなかった恐ろしい父が、孫娘にはゲロ甘のいいおじいちゃんになろうとしている。
とんでもないことである。
だが、ブチ切れ状態の中、なけなしの理性で考えた。
私はもう母親なのだから、父のことを諦めてもいいんじゃないか?と。
私にとってはアレな父でも、孫にとっていいおじいちゃんならそれでOKじゃね?と。
そう考えたら、イライラの半分くらいは消えて無くなった。
下の弟は私は父にとても愛されていたと言うけれど、需要と供給が合っていないんじゃお互い不幸なんだよ。
私には大切にされた自覚がない。
毎日が理不尽の連続だった。
勉強ができない自分に価値はない、勉強以外のことをしてはならない。
そう思い続けてきた。
他県の大学で全部ぶっ壊れたけど。
夫に可愛がられる娘や息子が羨ましい反面、こんなに甘いお父さんに育てられてこの子たち大丈夫?と用でもない心配をしてしまう。
でも、これでいいじゃないの。
可愛がられて幸せそうなんだから。