だらだらと振り返ってみる
今週のお題「おとうさん」
地震雷火事親父。
まさにそんな感じの昭和の父で、周りの子がママの方が怖いと言うのが信じられなかった幼少時代である。
口より先に手が飛んでくるので、食事時に隣に座るのはもはや罰ゲームだった。
酔って帰れば絡まれ理不尽に怒られるので寝たふりをしたのも数知れず。
成績が落ちればひと月無視。
いやー、よく非行に走らず大人になれたもんだよ私たち兄弟…。
みんな独立したし。
父は中学で父親と死別し、兄が地元から出奔し姉たちは嫁ぎ先。
母子家庭の貧乏生活で大学に行けなかったことを随分と後まで言っていた。
本当の問題はそこじゃない気がしているけど口にしたことはない。
母親が頼みにしていた長男様が逃げ出した後、手をかけて貰えてこなかった次男がどうしたくなるかなんて、ねぇ…。
父方祖母の引き取り同居で空中分解した私の家族は、そのまま元には戻らなかった。
某ちゃんねるで言う、はっちゃけ次男&エネme妻。
母が自分の根城にしていたダイニングキッチンに中高生の子供が3人ひしめき合って、居間で祖母がポツンとテレビを観ていた。
ぱっと見父方祖母がかわいそうだが、私は全くそうは思わなかった。
母を台所住まいにさせおって、私たちから勉強部屋を奪いおって、と毎日イライラしていた。
この状況で私に進学校で好成績を取り国立大へ行けとか何なの。
センター試験前でも1人部屋を与えられず、父方祖母から移された風邪が拗れて私がどう思ったか。
こんな無茶な生活何年もして、母が離婚を言い出すんじゃないかと固唾をのんで見守った学生時代。
離婚しなかったのは、途中でエネmeな母が覚醒して下克上したからだ。
父も自分の家庭が壊れたのは父方祖母のせい、連れてきた自分のせいだと気付いたとのことで、大人しく母に従った。
いまは2人で旅行に行き、孫たちを訪ねて出歩くようになった。
それでいいと思う。
仲良くなれて良かったね。
要所要所で父の希望と言う名の暴走を(メンタル的な生死をかけて)へし折ってきた私が夫を連れてきた時、父は歓喜した。
そこには父の理想像があったからだ。
末っ子次男で国立理系院卒。
そのための夫じゃ全くないけれど、結果的になんか満たされたような顔をしていたのでそっとしておいた。
娘が生まれた時、父は初孫に当然フィーバーした。
だが、いわゆるガルガル期だった私は変に甘やかすんじゃねぇと常にブチ切れていた。
自分にとっては需要と供給がアンマッチで反抗することもできなかった恐ろしい父が、孫娘にはゲロ甘のいいおじいちゃんになろうとしている。
とんでもないことである。
だが、ブチ切れ状態の中、なけなしの理性で考えた。
私はもう母親なのだから、父のことを諦めてもいいんじゃないか?と。
私にとってはアレな父でも、孫にとっていいおじいちゃんならそれでOKじゃね?と。
そう考えたら、イライラの半分くらいは消えて無くなった。
下の弟は私は父にとても愛されていたと言うけれど、需要と供給が合っていないんじゃお互い不幸なんだよ。
私には大切にされた自覚がない。
毎日が理不尽の連続だった。
勉強ができない自分に価値はない、勉強以外のことをしてはならない。
そう思い続けてきた。
他県の大学で全部ぶっ壊れたけど。
夫に可愛がられる娘や息子が羨ましい反面、こんなに甘いお父さんに育てられてこの子たち大丈夫?と用でもない心配をしてしまう。
でも、これでいいじゃないの。
可愛がられて幸せそうなんだから。